『スペインの黄金』からちょうど40年を経て、『海の戦い』A Sea Battle (1948) においてJ.J.メルドンとケント元陸軍少佐は再び、アイルランド西部の同じ離れ小島に冒険に出かける。今回の目的は別の種類の悪漢たちを駆遂するためであった。
メルドンは、『スペインの黄金』の手柄を認められてイギリス・ノッティンガム州の炭鉱町の司祭になって以来、毎年夏、1か月の休暇をバリモイにあるケント元陸軍少佐のポーツマス・ロッジで過ごしていた。第二次世界大戦が終わったばかりのある年の夏、メルドンがポーツマス・ロッジに来ている時、見知らぬ外国人がロールスロイスに乗ってこの町のホテルにやって来た。この見知らぬ外国人は、『スペインの黄金』の舞台となった小島に行きたいので船を借りたいと言う。メルドンとケントは彼を怪しむ。彼は、『スペインの黄金』の映画ロケをするつもりだと嘘をつくが、彼らは騙されない。この外国人は船で島に向かう途中、沈没してしまい、彼のあとをヨットでつけていたメルドンとケントに救助される。島に上陸後、ふたりの別の外国人が帆船に乗って島にやって来て、この外国人に加わる。メルドンはカトリックのマルクローン神父に再会する。ふたりは『スペインの黄金』で、協力して悪漢から黄金を奪い返して以来、親交を暖めていた。神父は、司教から、「ドイツの戦争犯罪者たちがアイルランド西部に逃亡している」という手紙を受け取っており、それをメルドンに見せた。そこでメルドンは、3人の外国人がスウェーデンの戦争犯罪者収容所から脱走してこの島に身を隠そうとしているナチスドイツの戦犯であることを知る。彼らはメルドンに銃を脅して、彼らがこの島に住むことを認めさせようとする。しかしメルドンは彼らの要求を拒絶し、『スペインの黄金』の中でふたりの悪漢に立ち向かった時と同じように、「神以外は何ものも恐れぬ」勇敢さで彼らに立ち向かう。ドイツ人が「俺たちは話し合いたいことがある。真面目な話だ」とメルドンを脅すと、彼は「神学よりも真面目なものなどあり得ません」とかわす。バーミンガムの深いキリスト教信仰を端的に示す一節である。
メルドンは、ドイツ人が彼に銃を突きつけて脅しても怯むことなく、ケント元陸軍少佐を引き合いに出して次のように言う。
「私が言ったように、ケントはあなたがたを決して高くは評価していませんよ。もしあなたがたが私を撃ち殺したら、彼はあなたがたをうんと嫌な目に遭わせるでしょう。この島に住むことはいずれにせよ問題外ですが、もし私を撃ち殺すか、さもなくば痛めつけるかして、そのことをケントが聞いたら、あなたがたはどこにいてもそう長くは生きられませんよ。ここでも、その他どこにいてもです」
このことは、メルドンはケントの真面目一点張りの性格をたびたび非難するが、実際には彼を深く尊敬していることを示している。そして、『スペインの黄金』ではメルドンが悪漢たちから黄金を奪い返す上で中心的な役割を果たしたのに対し、この作品ではケントがドイツ人たちを駆遂する上で中心的な役割を果たす。ケントは島民たちに命じて漁器具と農器具を武器代わりに持って来させ、「艦隊」を形成してドイツ人たちの船を包囲し、メルドンを救い出す。
バーミンガムのキリスト教慈愛精神は、結末でのドイツ人たちの取り扱いに現れている。メルドンとケントとマルクローン神父は、彼らを司法の手に引き渡す代わりに、彼らがこの島には二度と永遠に近寄れないよう去って行くのを見届ける。これは、バーミンガムが『荒野の賢者たち』の中で賞賛している、「悪に対して善で報いる」「罪人に対する慈愛」というふたつのキリスト教道徳を具現している。この作品のうちに見るもうひとつのキリスト教精神は、メルドンとケントの40年を経ても変わらぬ友情である。メルドンは自由奔放で楽天的なアイルランド人で、ナショナリズムもユニオニズムも支持していない。一方、ケントは保守的で謹厳実直なイギリス人気質を備えており、不屈のユニオニストである。このふたりが、「人間はえてして違う性格の人物に惹かれる」という諺の通り、お互い惹かれあって、アイルランドとイギリスの対立を超えて友情を守り通してきた。ふたりとも、預言者イザヤと同じ「愛と優しさ」を持った人物といえよう。
ヒルダ・マーティンデイル Hilda Martindale は、『回想ハネイ司祭』Canon Hannay As I Knew Him (1951) のうちでバーミンガムのユーモアを如実に示すエピソードを紹介している。イギリス人である彼女がアイルランドで仕事に行き詰まった時、バーミンガムに助けを求める手紙を出した。すると彼から次のような返事が来て、彼女は勇気づけられた。
「どこでも善を行うのはたやすいことではありません。それは、確かにアイルランドではとてつもなく困難なことです。私自身の経験から言うと、本当の絶望から逃れる唯一の望みは、物事のコミカルな面を見ようという断固たる決意です。人間は誰も何度も何度も失敗を繰り返すものです。そして、もし私たちが失敗から笑いの糧を得ることができなければただ落ち込むだけです」
数多くの苦難を乗り越えて来たバーミンガムの言葉だけに、説得力と真実を持って訴えかけてくる。
また第二次世界大戦中、ロンドンはドイツ空軍から激しい空襲を受けたが、バーミンガムは毎週日曜日、彼の教会で欠かさず礼拝を続けていた。ある日曜日、教会の中は、空襲で破壊された近くの建物の瓦礫から立ち上る塵と埃が充満していた。彼は礼拝に来た信者たちに言った。
「神に対する感謝の祈りを捧げたらすぐにここを出ましょう。でないと私たちはみんな肺炎になってしまいます」
実生活の中で、バーミンガムのユーモアとキリスト教精神が結びついたエピソードである。
バーミンガムは、1946年、母校トリニティ・カレッジ・ダブリンから小説家としての功績が認められ、名誉文学博士号を授与された。その後も聖職者として、小説家として精力的に活動を続け、1950年2月2日、84年と7か月の人生を全うした。彼の最後の小説で、61作目の『ふたりのごろつき』Two Scamps (1950) は彼の死後出版された。
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