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小説家 ジョージ・A・バーミンガム
小説家ジョージ・A・バーミンガムの生涯と作品
聖職者としてのバーミンガムと、ユーモア精神の発展

バーミンガムの深い信仰心を示すエピソードが自叙伝『麗しき土地』の中で紹介されている。バーミンガムがウェストポートの司祭を務めていた時、町の中心部にあるホーリー・トリニティ教会以外に郊外に4つの教会があり、毎週日曜日、バーミンガムと副司祭が交代で礼拝に出向いていた。ひとりが町の中心部の教会で礼拝を行う時、もうひとりは残りの4つの教会を回って礼拝を行った。この4つの教会を回るのは30キロ以上の道のりで、バーミンガムは最初馬で、後には自転車で回るようになった。そのうちのひとつ、町の南東部のはずれにある教会は十五、六人程度の礼拝者だったが、彼らはこの上なく信心深かった。この教会には、地上から1メートル50センチくらいの高さのところにふたつの暖炉が壁に向かい合って設置されており、礼拝者たちは各家庭から泥炭を持参して暖房用に燃やしていた。しかし煙突は煙の通りが悪く、礼拝中、教会の内部は煙につつまれ人の顔が見えなくなるほどだった。それでも、バーミンガムも、信者たちも、休むことなく礼拝を続けた。

ウェストポート中心部にある国教会
町の南東部にある国教会の遺跡

1913年、『ジョン・リーガン将軍』のロンドン、ニューヨーク公演の成功によって、バーミンガムはアメリカ各地から講演の招待を受け、これを機にウェストポートを去ることを決意する。1915年には第一次世界大戦が勃発し、翌16年から17年にかけてバーミンガムは従軍司祭としてイギリス陸軍に同行し、戦地となったフランス国内を巡る。この時期、アイルランドは大きく激動した。イギリスからの独立運動は激しさを増し、1916年4月にはダブリンでイースター蜂起が起き、反乱軍とイギリス軍が血みどろの戦いを繰り広げた。第一次世界大戦と重なったこの時期、アイルランドの急進派ナショナリストたちは「イギリスの災難はアイルランドの幸運」と見なし、ドイツを支持した。しかしバーミンガムは、いくらナショナリズムを支持していたとはいえ、この急進派ナショナリストたちの考えは間違いであり、ドイツと戦うイギリスが正しいと断言し、従軍司祭を志願し、戦地に赴いた。

1916年当時のバーミンガム
(TCD Manuscripts 3457/48)

バーミンガムには長男ロバート(Robert)、長女テオドシア(Theodosia)、次女アルテア(Althea)、次男シェイマス(Seamus) という4人の子どもがいた。そのうち、ロバートは『アイリッシュ・タイムズ』の記者になり、第一次世界大戦ではイギリス陸軍の前線に立ちドイツ軍と戦い、負傷した。アルテアもまたイギリス陸軍に同行しながら軍人食堂で働いた。この戦争体験とアイルランドの激動は、ナショナリズムとユニオニズムを巡るバーミンガムの葛藤をさらに深め、彼をどちらにも偏らない「無党派」にし、同時に彼のユーモア精神を発展させて行ったのではないだろうか。

当時のバーミンガムのナショナリズムを巡る葛藤は、彼が知人に宛てた2通の手紙から窺い知ることができる。1通目は第一次大戦末期の1918年5月にイギリス陸軍幹部あるいは警察幹部らしき知人に宛てたもので、「幾人かの急進派ナショナリストたちを、ドイツ軍と結託しているという容疑で逮捕したようだが、確たる証拠がつかめない限りは彼らを釈放すべきだ。さもなければアイルランド国民は最悪の反乱を起こす」という警告の手紙で、ナショナリズム擁護ともとれる。しかし1920年3月のセント・パトリック・デイにマウントイーグル卿という知人に宛てた手紙では、「おそらくアイルランドにとっては自治法が最も望ましい体制だと私は思うが、現在は政治体制を変えるのはふさわしくない時期だ。第一次大戦が終わってアイルランド人は数限りない罪を犯している。この時期を通り過ぎるまでは、政治体制を変えることは賢明ではない」と述べ、アイルランド独立運動への協力を拒否している。

1918年から22年までの4年間、バーミンガムは、ダブリンの西部キルデア州カーナルウェイの司祭を務めた。イースター蜂起におけるイギリス軍の残虐行為を目の当たりにして、ナショナリストたちのイギリスに対する憎しみは最高潮に達し、シン・フェインを初めとする急進派ナショナリストたちのイギリス軍に対するテロ活動が日増しに増え、バーミンガムの住むカーナルウェイも不穏な状況になってきた。かくして彼はアイルランドを去ることを決意する。後年、彼は自叙伝『麗しき土地』の中で、ナショナリズム運動と関わっていた時期を振り返りながら次のように述べている。

「この話とともに、私は、短くて不幸だったアイルランドの政治との関わりの記述を終えなくてはならない。この、高邁な希望、輝く情熱、恐ろしい行為の歴史を書くことは私の務めではない。私にとって、これら全てよりももっと偉大なものは『愛』であるということを学んだだけで十分だ」

長女テオドシアとふたりの子ども
(TCD Manuscripts 3457/61)

バーミンガムがカーナルウェイで司祭を務めていた1920年頃、長女のテオドシアがイギリス人のカトリック教徒と結婚し、彼女自身はプロテスタントのままでい続けるが、ふたりの子どもはカトリックとして育てることを決意する。一説によれば、この結婚によってバーミンガムは傷ついたが、彼の「いつもの優しさと 寛大さ」で、他人のものの見方を受け入れ、 娘夫妻とは友好関係を保ち続け、彼の小説 の中でカトリック神父に対する批判がまっ たく見られなくなったのもこの結婚が原因 と言われている。(Hilda O’Donnell, “A Literary Survey of the Novels of Canon James Owen Hannay,” 1959, pp.121-122)

アイルランドを去ったバーミンガムは、1922年から2年間ハンガリーの首都ブダペストでイギリス公使館の司祭を務める。そして1924年にはイギリス南西部サマーセット州のメルズに司祭として赴任する。メルズは人口わずか600の山間部の小さな村で、バーミンガムが礼拝を行っていたセント・アンドリュース教会の中には、彼の胸像が設置されており、その下には「ジェイムズ・オウエン・ハネイ(ジョージ・A・バーミンガム)、文学博士、1924年から1934年まで当地にて司祭を務める」と記された記念碑が掲げられている。1934年1月28日日曜日の礼拝で、彼は旧約聖書の預言者イザヤに関する講話を行った。イザヤは、エルサレムがアッシリアから侵略される危機に直面した時、人民に、「落ち着け。恐れることはない。動じないことが強いのだ。神のみぞ恐れよ。神以外何も恐れる必要はない」と告げた。バーミンガムは、このイザヤの神に対する深い信仰を称え、これはラジオを通してイギリス中に放送され、人々に勇気を与え、数多くの感謝の手紙が彼のもとに寄せられた。それらのうち約60通が、トリニティ・カレッジ・ダブリンの古文書図書館 (Manuscripts and Archives Research Library) (http://www.tcd.ie/Library/manuscripts/index.php) に保存されている。「あなたの説教は私を慰め助けてくれました。私は神経衰弱から回復しております。私は困難な時期を過ごして参りましたが、苦難の中で神についてますます多くのことを学びました」「これは、あなたの説教によって救われたふたりの孤独な姉妹からの感謝の手紙でございます。もしよろしければ、今後、お祈りの時には私たちのことを思い起こして下さいませ」「私が幼少時代に通った教会からあなたの礼拝がラジオで流れてくるのを聴くことができ、この上ない喜びでした。あなたの次回のラジオ礼拝を楽しみにしております」といった内容の手紙である。

メルズ時代、家族とともに
(TCD Manuscripts 3457/59)
左がメルズ教会、右が領主邸宅
(TCD Manuscripts 3457/82)

1934年から亡くなる年の1950年まで、バーミンガムは、ロンドンのサウス・ケンシントンにあるホーリー・トリニティ教会 (http://www.htsk.co.uk) で司祭を務め、第二次世界大戦によるドイツ軍の空爆に遭遇する。アイルランド・ナショナリズム運動との関わり、第一次世界大戦、長女テオドシアのカトリック教徒との結婚、第二次世界大戦といった数多くの苦難の体験を通して、バーミンガムは、彼の敬虔で深いキリスト教信仰ゆえに、あらゆる信条、教義を超えた人間同士の融和を心から望むようになったのではないだろうか。そして、「自分たちの主義主張に固執して対立するのは非常に愚かなことだ。全てのものごとのうちにはコミカルな要素があり、決して真面目に考え過ぎるべきではない。冗談交じりで扱うべきだ」という思想、すなわち人間同士の融和のためにはユーモアの精神が必要不可欠であるという信念をますます深めたのではないだろうか。

この、あらゆる信条、教義を超えた人間同士の融和に対するバーミンガムの真の願望が現れたユーモア小説のひとつに『国境を越えて』Over the Border (1942) がある。

これは第二次世界大戦のさなかに書かれた作品で、舞台は大戦中のハンガリー、アイルランド、北アイルランド、イギリスにまたがる。アイルランド・ドニゴール州の、北アイルランドとの国境近くの町に、イギリス人を祖先とする土地地主のマルモア卿とその家族が、代々受け継いできた邸宅に住んでいた。彼のひとり娘ウナは友人たちと東欧を旅行中、ハンガリーの首都ブダペストで若きドイツ人外交官フォン・ローテンスタインと出会い恋に陥る。しかしマルモア卿にとって娘が敵国ドイツの男性と恋に陥るというのは耐え難いことだった。彼女をドイツ人から引き離すためにハンガリーに出向いたのは、彼女の伯母で、ドニゴール州で競走馬を飼育しているマーガレット未亡人だった。ところが未亡人はドイツ人に丁重に扱われ、なすすべなく帰ることになった。そしてウナはそのままハンガリーに滞在し、彼と結婚する。その後、ローテンスタインは、中立国であるアイルランドのダブリンのドイツ公使館に駐在することになり、ウナとともにやって来た。まもなくしてベルファストがドイツ軍の大規模な空襲に遭い、数多くの死傷者を出す。空襲の前、ローテンスタインはウナとともに、国境近くの彼女の実家を訪れていた。マーガレット未亡人は、ローテンスタインがそこからベルファストに関する情報を収集し、ダブリンのドイツ公使館を通してドイツ空軍に送り、空襲をもたらしたのだと断言する。そして彼をこのままにしておいたら次はデリーがやられるという危惧を述べ、彼を捕らえてイギリス軍当局に引き渡すべきだと主張する。これに賛同したのが、ベルファスト生まれで、オックスフォード大学出身のジミー・マックニースだった。彼は、たまたまハンガリーでマーガレット未亡人と知り合い、戦争が始まるとイギリス空軍に入隊して戦い負傷し、静養していた。彼は、未亡人を含め幾人かの仲間と共謀し、ウナの実家にいるローテンスタインを捕らえ、車で彼を北アイルランドに運び、イギリス軍当局に引き渡す計画を立てる。そして彼らは真夜中にウナの実家に踏み込むが、そこで意外な事が起こる。取り囲まれたローテンスタインは彼らに対して「君たちはドイツ国家警察だろう。もうぼくは君たちの意のままだ。撃て」と言う。彼らが当惑していると、家の主であるマルモア卿が彼らを中に招き入れ、酒宴が始まる。そこでローテンスタインはアイルランドにやって来た真の理由を語る。そして妻のウナは、マーガレット未亡人に、ローテンスタインを保護して欲しいと依頼する。その礼として、ローテンスタインは、金を投資して、イギリス競馬に出場する未亡人の馬ヘスペリデスの共同所有者になる。そしてこの馬はレースに勝ち、イギリスの各新聞は、ローテンスタインに関して、勝手な推測をして、あること、ないことを書き立てる。「フォン・ローテンスタイン伯爵のドイツからのセンセーショナルな逃亡はまだ読者の記憶に新しい。彼のイギリス入国は予め手配されていたものである。イギリスにやって来ることを切望していた1ナチスドイツ外交官の入国をスムーズにした理由は、彼がヘスペリデスの所有者であったためだ」「ヘスペリデスは、ある肩書きを持ったアイルランド人女性の名前でエントリーし、勝った。彼女は結婚によってナチスドイツの高級官僚たちと関係を保っている。競馬協会は、この馬がレースに出場して勝つことを許可する前に、この馬の奇妙な所有権について調査すべきではなかったか」「ヘスペリデスの所有者は、レースを観戦するために、きちんと礼節を保ってイギリスへの入国許可を願い出た。また入国を許可した当局も非難されるべきではない。わがイギリスはスポーツマンの国である。イギリス国民は、その偉大な精神ゆえに、敵であれ味方であれ競走馬の所有者を認める。フォン・ローテンスタインに、昨日、観戦許可を与えたことは、わが国最良の伝統に従うものである」

真実を知るマーガレット未亡人、ジミー、ウナたち当事者は、ヘスペリデスの勝利で稼いだ賞金を使うことに忙しく、新聞社に対してクレームをつけることは一切しなかった。

この小説が書かれたのは、イギリスとドイツが激しい戦いを繰り広げている第二次世界大戦のさなかであったが、バーミンガムのドイツに対する憎しみはまったく感じられず、ユーモアに満ち溢れている。この作品のタイトル Over the Border が意味するものは、ハンガリー、アイルランド、北アイルランド、イギリスと「国教を越えて」登場人物たちが行き来するということだが、その背後には、彼らが「あらゆる信条・教義の境を越えて」融和するという意味が含まれているのではないだろうか。バーミンガムのユーモア小説は荒唐無稽であるが、ある批評家は、それをただ単に荒唐無稽とは見なさず、「バカバカしさの哲学」と呼んだ。確かに、彼のユーモア小説は、「全てのものごとにはコミカルな要素があり、決して真面目に考え過ぎるべきではない。人間の融和のためにはユーモアの精神が必要不可欠だ」という哲学ともいえる普遍的真理を表現しているといえよう。

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