英語
日本語
小説家 ジョージ・A・バーミンガム
小説家ジョージ・A・バーミンガムの生涯と作品
『ジョン・リーガン将軍』(1913)の真意は

『ジョン・リーガン将軍』は、バーミンガムが書いた2作目の演劇作品である。1913年1月9日、ロンドンのアポロ・シアターで初めて上演された時、観客からも批評家からも大きな賞賛を浴び、その後も連日の満員大入りとなり、6月に短期間の休演をはさんで、9月9日まで続くロングランとなった。1月9日の初演の模様を伝える当時のイギリスの主だった新聞には、「実にすぐれた3幕風刺劇」「最高のユーモアに溢れ、アイルランド西部に住むいくつかの人物像を風刺している」「今までにこれほど心から笑えた作品はない」「偉大な冗談」といった記事が掲載された。さらに11月11日からはニューヨークのハドソン・シアターで公演が始まり、リヴァティー・シアターへと移り、12月21日まで続き、アメリカでも好評を博した。しかし、翌1914年この演劇がアイルランドにやって来て、ウェストポートで上演された時、アイルランド演劇史上最悪の暴動が起きる。

この暴動の予兆は、アポロ・シアターでロングラン公演されている時にすでにあった。公演を観たアイルランド人のひとりが、アイルランドの『ナショナル・ウィークリー』The National Weekly 1913年2月1日号の中で、「アイルランドを侮辱した司祭-あるロンドン演劇に対する抗議-」と題する批判記事を書き、次のように述べた。

「これら、アイルランド人医師、アイルランド人神父、アイルランドの田舎の住民たちは悪魔的な狡猾さを持って描かれている。彼らは、金に目がくらんで、共謀して嘘をつき、アイルランド人の最も卑しく、下品で、愚かな性質をイギリス人に顕示している」

『ジョン・リーガン将軍』のアイルランド公演は1914年1月26日のキルケニーを皮切りに、ゴールウェイ、キャスルバーを巡って2月4日にウェストポートにやって来た。暴動の模様は、アイルランドの代表的新聞である『アイリッシュ・タイムズ』The Irish Times が詳細に伝えている。キャスルバー公演で観客の激しいヤジに会い、ウェストポートでは予め暴動に備えて、会場のタウンホールの内側と外側に警官が配置された。第一幕が開くや、五、六十人の観客たちがうなり声を上げ、ブーイングを飛ばし、口笛を吹き鳴らし、床を踏み鳴らし、役者たちのセリフはまったく聞こえない状態になった。第二幕が開き、マコーマック神父を演ずる役者が登場するや否や、一群の暴徒たちが舞台に駆け上がり殴りかかった。彼は気を失い、服は引きちぎられた。警官が制止に入り、照明は消え、劇は中止になった。三百から四百に膨れ上がった暴徒たちは警官たちめがけて椅子やその他の物を投げつけた。役者たちは彼らのホテルに逃げ帰ったが、暴徒たちはホテルの目の前で叫び、ブーイングを飛ばし、石を投げつけて窓ガラスを何枚も割った。暴動は真夜中まで続き、20人が逮捕された。

果たして『ジョン・リーガン将軍』は、ただ単なるアイルランド人に関する風刺喜劇なのだろうか。舞台はアイルランド西部の海岸沿いの架空の町バリモイで、ウェストポートがモデルと言われている。アイルランド西部にしては珍しく暑い夏の日で、「温度計が華氏80度を越える日にはバリモイのような町では、定期市の日以外は、仕事は完全にストップしてしまう」と言われているように、人々は完全に働くことをやめ、肉屋の前に寝そべっている太った犬を除いては、外には人の気配がまったくなかった。警官も昼寝をしていた。この町に、ホレイス・P・ビリングと名乗る大富豪とおぼしきアメリカ人が高級車に乗ってやって来て、「帝国ホテル」という名前だけが立派な旅籠に宿泊する。ビリングは、旅籠経営者のティモシー・ドイルに、「この町は少しでも活気づきたいと泣き叫んでいるようですね」と語り、町の活気のなさ、退屈さを指摘する。旅籠の中庭には肥料の堆積と豚小屋があり、不潔そのものだった。旅籠のメイドであるメアリー・エレンは、「とても可愛らしいが、中庭と同じくらいに不潔」で、ビリングに食事の給仕をするが、仕事は極めて遅い。この作品のアメリカ公演で彼女を演じたのは、アイルランドを代表する劇作家ジョン・ミリントン・シング (John Millington Synge, 1871-1909) の元婚約者モイラ・オニール (Maire O’Neill, 1885-1952) で、アイルランド人特有の彼女の愛らしさは多くの観客を魅了したが、アイルランド人はメアリー・エレンの描写を「アイルランド人女性に対する侮辱」と見なして嫌悪した。

ビリングは、新聞編集者サディウス・ギャラハーに、自分もアメリカの新聞編者だと自己紹介し、バリモイを訪れた目的を語る。彼は、この町に生まれ、後に南米ボリビアの独立のために戦ったジョン・リーガン将軍の伝記を書くための調査にやって来たという。そして、この町にあるはずの将軍の銅像を見たいという。しかし町の住民誰ひとりとして将軍のことも知らなければ、銅像のことも知らない。そこに登場したのがこの作品の主人公ルシウス・オグラディー医師で、『スペインの黄金』の主人公J.J.メルドン同様、快活で、楽天的で、エネルギーに満ち溢れた若者である。オグラディー医師も将軍のことなど何ひとつ知らないが、知っているふりを装い、ビリングをペテンにかけようと企む。医師はビリングに、町議会はまもなく将軍の銅像を建設予定だと嘘をつき、建設のあかつきにはこの町に大金を寄付する約束をビリングから取り付ける。オグラディー医師の指揮の下、バリモイの人々は、罪の意識を感じながらも、ビリングを欺く企てに取り組む。医師はサディウス・ギャラハー(通称サディー)に命じて、彼の新聞に、バリモイの人々はどれほど将軍の功績を賞賛しているかという記事を書かせる。この作品には『スペインの黄金』のケント元陸軍少佐が再び登場する。彼は当初、誰も知らない将軍の銅像を建てることに反対するが、オグラディー医師に言いくるめられてこのペテンに参画する。

警察署は将軍が子ども時代を過ごした家に偽装され、旅籠の経営者であるドイルの農場に立つ廃墟が将軍の生家に偽装された。サディーがビリングにこれらの場所を案内している時、将軍の生きている親戚はいないかと尋ねられた。サディーは、ビリングを失望させたくなかったので、肉屋のケリガンの妻が将軍の親戚に当たるととっさの嘘をつく。しかしケリガンはまだ独身だということが分かり、この失敗を覆い隠すためにオグラディー医師は、ケリガンはまもなく将軍の兄弟の孫娘と結婚予定だと告げる。その役割を当てがわれたのが旅籠のメイド、メアリー・エレンだった。ここまではビリングを信用させてきたが、銅像に関しては、人々は、将軍の顔かたちをまったく知らず、彫刻家であるドイルの甥に頼ることにした。彼はかつて、前のアイルランド内大臣の銅像の注文を受けて制作していたが、それが完成直前になってキャンセルされ、そのまま残っているのでそれを用いようと提案する。オグラディー医師は、銅像の除幕式にアイルランド総督を招待し、そのついでに町の桟橋建設のための補助金を要請しようと提案し、人々の同意を得る。除幕式に向けての準備は着々と進み、マコーマック神父は歓迎スピーチの原稿を完成させ、メアリー・エレンは将軍の兄弟の孫娘にふさわしくドレスを着飾り、町の楽団が結成され何度も練習を繰り返し、ドイルの「帝国ホテル」ではアイルランド総督とその一行を迎える歓迎ランチの席が整えられた。準備万端整い、あとはアイルランド総督の到着を待つだけになった時に、突然、総督から除幕式への参加をキャンセルする電報が届く。代わりに除幕式の会場にやって来たのはアイルランド総督の副官アルフレッド・ブラックニー卿で、彼はものすごい剣幕でオグラディー医師を怒りながら、ジョン・リーガン将軍の正体を告げ、除幕式を中止するよう命じる。バリモイの人々は、今までの企みが全て水泡に帰し、大きな借金を抱えることになったとオグラディー医師を責める。そこにアメリカ人ビリングが現れ、この謎の将軍に関する真実と、彼がバリモイを訪れた本当の理由を語る。そして彼は、町の人々を一致団結させ自分をペテンにかけようと獅子奮迅したオグラディー医師の怯まぬエネルギーを賞賛し、「アメリカにはルシウス・オグラディー医師に匹敵する医師はいない」と語り、約束どおり大金を町に寄付し、予定通り除幕式は挙行される。

もちろんこの作品に風刺的描写は見られるが、アイルランド人観客は、ナショナリストだけではなくユニオニストも風刺されているという事実を見落としたのではないか。ナショナリストの風刺例としてサディウス・ギャラハーが挙げられる。彼がビリングを、将軍の生家に偽装されたドイルの農場の廃墟に案内した時、ビリングは将軍を「ボリビアの自由の不滅の達成者」と呼んで帽子を脱いで敬礼した。するとサディーは、訊かれもしないのに、イギリス人土地地主が今までどれほどアイルランド人を虐待してきたか、アイルランドの独立は達成間近だといったことを熱烈に語り始めた。オグラディー医師はこのことを聞いた時、「ビリングから石をぶつけられなかったか」とサディーに問いかけた。さらにサディーは、銅像の除幕式の時、酔っぱらって、町の楽団がアイルランドの愛国歌を演奏しているにもかかわらず、イギリスの歌と信じ込みナショナリズムに対する侮辱だと糾弾するのだった。一方、ユニオニストに対する風刺の例としてアイルランド総督の副官ブラックニー卿が挙げられる。彼はオグラディー医師を叱りつけながら除幕式の中止を命令するが、将軍が何者であれ除幕式を行うという医師の奇妙な論理にたじたじになる。そして除幕式は予定通り挙行され、ブラックニー卿はスピーチまでするはめになる。さらには式で演奏された音楽はアイルランドの愛国歌であったのに、音楽に関して無知な彼はそれがイギリス国歌だと信じ込む。

しかし『ジョン・リーガン将軍』はもともと風刺劇ではなく、ユニオニストとナショナリストの融和に対するバーミンガムの心からの願いが溢れ出た作品である。もしアメリカ人ビリングがただ単なる善意の金持ちで、彼を、オグラディー医師を初めとするバリモイの住民たちが欺こうとするのならば、アイルランド人の「卑しく、下品で、愚かな」性質を暴いた風刺劇と言える。しかし実はビリングもまた別の意味でペテン師であったことが判明し、最後には町の住民もビリングも幸せになる。オグラディー医師は、「愛と優しさ」を兼ね備え、ナショナリストとユニオニストの共通利益のために、「勇敢で強く、神以外の何ものも恐れず」そして「完璧な絶望の時にも決して怯まず」行動し、バーミンガムが理想とするキリスト教精神を具現しているといえよう。ウェストポートで暴動が起きた時、バーミンガムは講演のためにイギリス・グラスゴーにおり、「暴動の理由がまったく理解できない。この演劇は、風刺のつもりはなく、単なる喜劇のつもりで書いた」と語った。この言葉通り、彼はただ単なる喜劇としてこの作品を書き、風刺の意図もなければ、上記のようなキリスト教精神を伝えようという意図もなかったのかもしれない。しかし、バーミンガムは一生涯を通して、敬虔で、信仰心が深いキリスト教聖職者であったがゆえに、そのキリスト教精神が自ずから滲み出てきたのではないだろうか。

『ジョン・リーガン将軍』ウェストポート公演における暴動を伝える当時の新聞
Daily Sketch 1914年2月6日)
(TCD Manuscripts 3441/37)
<< BACK NEXT >>