ジョージ・A・バーミンガム (George A. Birmingham)の本名はジェイムズ・オウエン・ハネイ(James Owen Hannay)である。1865年7月16日、北アイルランドの首都ベルファストで生まれた。場所は、クイーンズ大学ベルファスト校の向かいにある、今日では大学事務局として使われている建物の一角で、生家跡には、「ジェイムズ・オウエン・ハネイ、小説家ジョージ・A・バーミンガム 1865年-1950年、7月16日ここに生まれる」と刻まれた記念のプレートが掲げられている。
バーミンガムが生まれた当時、アイルランドは全土がイギリスの植民地支配下に置かれており、アイルランドがイギリスに残留することを主張する人々と、アイルランドの独立を要求する人々の間で長年に亘って争いが繰り広げられていた。イギリス残留主張派の多くは、祖先がイギリス人で、アイルランドに移り住んだ人々及びその子孫たちであった。彼らは大半がプロテスタント教徒であり、ユニオニストと呼ばれた。一方、アイルランド独立要求派の多くは、祖先が土着のアイルランド人で、その大半がカトリック教徒であり、ナショナリストと呼ばれた。
バーミンガムの両親の祖先はイギリス人であり、父方の祖父はスコットランドから今日の北アイルランドに移り住み、やはりスコットランド人を祖先とする北アイルランド在住の女性と結婚した。この祖父母は、ウィスキーで有名なブッシュミルズ郊外の邸宅に住み、そこでバーミンガムの父親ロバート・ハネイ (Robert Hannay, 1835-1894)が生まれた。父親は、後にベルファストに移り住み、プロテスタント系のアイルランド国教会聖職者として、市の中心部にある教会(今日のセント・アン大聖堂)(http://www.belfastcathedral.org)で信者たちに礼拝を施していた。一方、バーミンガムの母方の祖父もスコットランド系であり、ベルファスト南西部の町モイラで37年間に亘ってアイルランド国教会司祭を務めていた。したがって、バーミンガムの家系は、伝統的にイギリスに忠誠を誓うユニオニストの家系であり、彼は、父親のイギリスに対する強固な忠誠を示すエピソードを、自叙伝『麗しき土地』Pleasant Places (1934)の中で紹介している。バーミンガムがやっと喋れるか喋れないかの幼児の頃、父親は、当時、北アイルランドのオレンジ協会(ユニオニスト急進派組織)の指導者的立場にあったドリュー博士という人物をバーミンガムの家庭教師として雇い、ドリュー博士は、バーミンガムを膝の上に載せ、「ローマ教皇はいらない、カトリック神父はいらない、絶対降伏するものか、万歳!」(No Pope, no priest, no surrender, Hurrah!)と繰り返し復唱することを命じた。
この徹底したユニオニスト教育にもかかわらず、バーミンガムは、後年、決してユニオニズムに共鳴することはなかったが、北アイルランドのユニオニスト特有の「抵抗の精神と権威に対する反抗心」を植え付けられたと述べている。実際、バーミンガムの後の言動や小説のうちには、ユニオニスト及びナショナリストの権威に対する反抗、抵抗が見られ、それらがユニオニストからもナショナリストからも誤解と反感を招く一因となった。
バーミンガムは、小学校・中学校・高校に当たる時代はイギリスで過ごした。9歳でテムズ川河畔のテンプル・グローブという学校に入学し、その後はロンドン北部のヘイリーベリーというパブリックスクールに通った。卒業後、再びアイルランドに戻ってきて、大学はダブリン大学トリニティ校神学部に学んだ。この大学は、1592年、イギリス女王エリザベス1世によって、アイルランドに住むイギリス系住民のために創設された大学である。
1888年、大学を卒業したバーミンガムは、アイルランド国教会聖職者となり、ダブリン南部、ウィックロー州の海岸沿いの町デルガニーに副司祭として赴任する。現在、この町のアイルランド国教会の内壁には、「ジェイムズ・オウエン・ハネイ、聖職者・学者・作家、筆名ジョージ・A・バーミンガム、1888年から1892年まで当教区にて副司祭を務める」と記された記念碑がはめ込まれている。翌1889年、バーミンガムは、アイルランド国教会聖職者で、後に司教になったフレデリック・リチャーズ・ウィン (Frederick Richards Wynne, 1827-1896 )の娘アデレード (Adelade)と結婚する。しかし、家計を支えて行くにはバーミンガムの聖職者としての給与だけでは不十分で、間もなくしてふたりは石炭代の支払いにも窮するようになった。そこでバーミンガムはロンドンの雑誌に短篇小説を書いて送ったところ、採用され10ポンドの小切手が彼のもとに送られて来た。さらにこの作品を読んだロンドンの別の出版社が、バーミンガムに長編小説の執筆を依頼し、彼は書き始めたが、この出版社は間もなくして倒産し、この話しは立ち消えになった。そして妻の忠告もあり、彼は小説を書くことを諦め、妻とともにキリスト教神学の研究に専念し、それは後に『修道院の精神と起源』The Spirit and Origin of Christian Monasticism (1903)、『荒野の賢者たち』The Wisdom of the Desert (1904)(http://www.nd.edu/Departments/Maritain/etext/wd.htm)として結実する。バーミンガムが小説家として正式にデビューするのは、次の赴任地ウェストポートにおいてであった。
1892年、バーミンガムはデルガニーを去り、司祭としてメイヨー州ウェストポートに赴任した。この町は、現在はダブリンから西へ特急列車で3時間強の、大西洋に面したアイルランド有数の観光地である。この町でバーミンガムは文学サークルを結成した。会員の大半は、彼と同じように、イギリスに祖先を持つプロテスタント教徒たちだった。ある例会の時、妻のアデレードが、政治的意図はまったくなしに、かつてアイルランドの独立のために戦った青年アイルランド党詩人たちの詩がいかに文学的に優れているかを語った。たまたまそこには、バーミンガムのヨット仲間で、アイルランドの独立を支持するナショナリストの会員がいて、彼はアデレードの話を賞賛した。これによって会員たちの間に険悪な空気が流れ、バーミンガムは、それを払拭するために、青年アイルランド党詩人クラレンス・マンガンの詩を、その音楽的美しさゆえに朗読した。しかしそれは火に油を注ぐ結果となり、プロテスタントの会員たちはバーミンガムに「嫌悪以上のもの」を感じた。これがバーミンガムのアイルランド・ナショナリズムとの関わりの発端であり、彼はアイルランドの歴史を研究し、アイルランド語を習得した。
バーミンガムが特に共鳴したのは、ダグラス・ハイド(Douglas Hyde, 1860-1949)が1893年に結成したゲーリック・リーグであった。ハイドも、バーミンガム同様、祖先はイギリス人で、プロテスタント系のアイルランド国教会の家庭出身で、ダブリン大学トリニティ校に学んだ。ゲーリック・リーグが目指したものは、アイルランド語の復興とアイルランド古来の文学の見直しを通して、イギリスとは違うアイルランド独自のアイデンティティ、文化を確立することであり、あくまで「非政治的組織」であった。バーミンガムは、自らが属するアイルランド国教会の機関誌(http://www.gazette.ireland.anglican.org/)やその他数多くの新聞、雑誌等でゲーリック・リーグを弁護する論説を発表し、多くのプロテスタント、ユニオニストの反目を買った。それらの論説はハイドの目にとまり、1904年、彼はウェストポートの司祭館に住むバーミンガムを訪れ、ゲーリック・リーグの幹部入りを要請し、バーミンガムは選挙を経て幹部役員に選出された。同時に、バーミンガムは、増え続ける家族を養うには聖職者としての給与だけでは不十分なことを悟り、再び小説執筆に着手し、ロンドンの出版社から出版されることになる。
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